近代性について考えていくと、 国民国家と資本主義のところで どうにも行き詰ります
いずれもが、近代を決定的に規定するのですが
いずれもが、近代性の原則 「人間主義・個人主義・合理主義」とうまく合致しないからです
ここら辺は こつこつと考えてきましたが やっぱりまだ上手い答えがみつかってません
さらに こつこつと勉強していくしかなさそうです
ということで… 次の新書『セクトの宗教社会学』から、一節をご紹介します
====================
リュック・ボルタンスキーとエヴ・シアペロは『新・資本主義の精神』 [邦訳は下記リンクの 『資本主義の新たな精神』] において、「近年の資本主義の変容にともなうイデオロギーの変化」を研究している。彼らによれば、資本主義は三つの時期を経験してきた。第一期は十九世紀末に現われ、それは「ブルジョワ的」で「家父長的」そして本質的に「家族的」な起業家世界の側面によって特徴づけられる。このような側面は、本研究 [ナタリ・リュカ『セクトの宗教社会学』] が扱う社会的な問題集団 [セクト/カルト] の特徴には合致しない。しかし、第二期および第三期の特徴は、これらの集団にぴったり当てはまる。第二期資本主義の精神は、一九三〇年代から一九六〇年代に発達したもので、それはとくに戦中および冷戦期の「社会的公正を目指す大企業と国家の協力」によって特徴づけられる。大企業は社会的使命の担い手を自任し、勤労の精神を強調した。その規模は「目がくらむほど巨大」で、第一期を特徴づけていた家族企業の規模とは雲泥の差である。そして「大規模な経済、製品の標準化、労働の合理的組織化、市場拡大の新技術に依拠しながら、大衆向けの商品を産み出していった」。大企業の特徴は効率という基準を追求したことで、それが年功序列の基準に代わり、昇進を正当化する唯一の基準になる。労働者は「資本蓄積の過程」において決定的な役割を担っているにもかかわらず、その「主たる享受者」ではない。
74-75頁: 注は省略した
====================
「第三期資本主義の精神」 は次のようにいわれる
====================
共産主義の崩壊は企業に大きな衝撃を与え、そのあり方を深いところで変えてしまった。「一九八〇年代後半、冷戦の終結にともない資本主義のみが生き残った。それに対抗しうる信憑性のある代替物が現われることはなかった」。資本主義を正当化する論理がいっそう個人主義的なものとなり、企業は国家との関係を解消する。競争の激化とグローバル化の進展のなかで、企業は人事もさることながら技術の適用性を重視する。もはや人員を丸抱えで導くだけの強力なイデオロギーがないため、企業の動員力は自分のヴィジョンを伝えて従業員を引きつけることのできるカリスマのある指導者の肩にのしかかる。このようななかで登場してきた職務に、「各人の潜在能力を伸ばすよう個人指導を行なう役割」を担う「コーチ」、チームのレベルで同様のはたらきをする「マネージャー」、情報を握っている「エキスパート」などがある。従業員全員に大きな責任が負わせられ、各人は「雇用条件を満たす能力」を最大限発揮するよう求められ、自分が携わっているすべてのプロジェクトにおいて有能であることを示さなければならない。そのためには、各人は人間関係のネットワークのなかで自分の位置を見出し、それを活用しなければならない。成功するためには、ひとつの仕事を覚えるだけではもはや不充分で、リスクを引き受けながら刷新をめざし、もはや私生活と職業生活の区別がつかなくなるくらい、自分の人柄と誠意を賭けなければならない。すると、失敗は個人的な性格を帯び、その人の価値は下落し、場合によっては孤立を招くことになる。
77-78頁: 注は省略した
====================