前便 「現代宗教学の宗教入門 ―中村圭志 『教養としての宗教入門』」につづき
もう一冊、 宗教(学)入門を紹介してみよう
この二冊をならべてみると
いま、この分野の専門家が なにを賭け金にしているか
かなりよくわかる、 と思う
ポイントはいくつかあるのだけど ここでボクが注目したいのは
中村先生が 「濃い宗教」 と呼んでいるものをめぐる 《人間=社会=歴史》 論であります
==========
というわけで 紹介するのは…
加藤智見 『宗教のススメ―やさしい宗教学入門』(大法輪閣,1995年) である
著者の加藤先生は、浄土真宗大谷派のお坊さんで
東京工芸大学の先生でもいらっしゃる
そこで、先生はこの本を 次のような計画のもとに書いたのだ、とおっしゃる
ところで宗教学とは宗教に関する学問であるが、大学で宗教学を教える私に、学生諸君はよく、「宗教学についての知識は大分頭に入りましたが、先生自身は宗教をどう思い、どのように生活に生かしているのですか」とたずねる。講演先でも、「あなた自身はどう宗教をとらえているのですか」とよく聞かれる。
たしかに宗教学は純粋な学問だから客観的でなければならない。しかしほとんどの人は宗教学の学問性に関心があるのではなく、宗教を自分の生き方の問題としてとらえようとしているのだ。そのような人にとっては、客観的であるということは無味乾燥だということにもなる。学問としての宗教学と宗教そのものとの間で私は随分悩んだ。
そこで今回は、宗教と宗教学の間に立って、あえて私自身の宗教への考えや体験も書き、宗教学そのものというより宗教学への道案内すなわち入門書とし、宗教と宗教学の双方に関心をもってもらうことに主眼をおいた。
読者の方々は、本書をお読みいただいて宗教に関心をおもちになったら、学問としての純粋な宗教学も学んでいただきたいと思う。それによって、ご自身の価値観を選び取り、しかも世界のさまざまな価値観に理解を示される一助になれば、望外の喜びである。
3頁: 傍点は太字で示した
ここで加藤先生がおっしゃる 「宗教への考えや体験」 とは どういうものだろう
それはたとえば 「生命力」 といわれる
以前私が教えていた一人の女子学生は、京都のある寺の薬師如来像にぞっこんであった。せっせとアルバイトをし、新幹線代を稼いでは京都に通っていた。なぜそんなに執心しているのか、私はたずねたことがある。すると彼女は、その薬師像を目の前にすると、その像から発散される活力のようなものが自分に伝わってくる。まるで充電されるように彼女の心の中にも体の中にも生命力が湧いていくるというのだ。像を制作させた力はどのような力であったか。独自な信仰心ではなかったのだろうか。
私は、宗教が科学や哲学と根本的に違うのは、この生命力を引き起こす事実にこそあると思う […] 。
64頁
「宗教」 に特殊、ないしは特別ななにか… 加藤先生はそれを指し示そうとなさっている
一方、 前便で紹介した新書で 中村先生は そのような関心をまったく放棄している
「人間」には 実は、「宗教」も「世俗」もないのだ
「宗教」にだけ特別ななにか、そんなもの あったにしても希少すぎて 「人間」にとっては さして重要じゃないんじゃないの
… 中村先生は そういう立場を鮮明になされた
加藤先生と中村先生、 どちらが未来にとって より生産的、建設的だろうか…
この業界のプロは そのことをいま とても自覚的に問うております
(広く納得される答えは まだない …けどがんばって問うてる)