「宗教は 心の安寧のために 人間が発明したものである」
そしてそこから 次のような断定…
「宗教は 単に迷妄、妄想、思い込み、勘違い、ひいては軽度の発狂にほかならない」
いかがでしょう、現代日本でよく耳にするポピュラー宗教論ですね
きっと、他の国ぐにでもそうなんでしょう
さて、この点について 次のような整理をご紹介しておきたいと思います
多くの人たちが薄らぼんやりと感得している 《宗教》 の肯定的な可能性の核…
みたいなもんでしょうか
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かりに宗教というものが人を安らかな心に導く手段であるとするなら、妄想や観念によってその心に導かれるのか、存在のリアリティを直視することによって妄想や観念を脱ぎ捨て、そのことによって安らかな心を体得するのかという二つの道すじがあるように思う。
後者の方法によってひとにぎりの安心を得た私は、そういう意味では「宗教」というシステムにとらわれることなく、知らず知らずのうちに宗教的体験を重ねていたのかも知れない。そしてこのインド亜大陸において宗教が発生したのは、ひとつにはそのようにこの地においてはあらゆる気候条件や生活条件によって現実のリアリティが剝き出しになる宿命を持っているからだろう。そして六〇年代の日本においてはやくも現実のリアリティの希薄(あるいはバーチャルリアリティへと向かう時代動向)を感じとった一人の青年がインドに向ったのも、リアリティの回復という、開かれた宗教的体験を暗黙のうちに求めていたからのように思える。
つまり青年の私は“正気にもどる”ために彼の地におもむいたのだ。
きっと、他の国ぐにでもそうなんでしょう
さて、この点について 次のような整理をご紹介しておきたいと思います
多くの人たちが薄らぼんやりと感得している 《宗教》 の肯定的な可能性の核…
みたいなもんでしょうか
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かりに宗教というものが人を安らかな心に導く手段であるとするなら、妄想や観念によってその心に導かれるのか、存在のリアリティを直視することによって妄想や観念を脱ぎ捨て、そのことによって安らかな心を体得するのかという二つの道すじがあるように思う。
後者の方法によってひとにぎりの安心を得た私は、そういう意味では「宗教」というシステムにとらわれることなく、知らず知らずのうちに宗教的体験を重ねていたのかも知れない。そしてこのインド亜大陸において宗教が発生したのは、ひとつにはそのようにこの地においてはあらゆる気候条件や生活条件によって現実のリアリティが剝き出しになる宿命を持っているからだろう。そして六〇年代の日本においてはやくも現実のリアリティの希薄(あるいはバーチャルリアリティへと向かう時代動向)を感じとった一人の青年がインドに向ったのも、リアリティの回復という、開かれた宗教的体験を暗黙のうちに求めていたからのように思える。
つまり青年の私は“正気にもどる”ために彼の地におもむいたのだ。
藤原新也『黄泉の犬』文春文庫,文藝春秋,2009[原2006]年,236-37頁.
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