いま久しぶりに、ほぼ8年ぶりに ちょっとまとまった文章を書いています
この8年で、僕の文体はすっかり変わってしまったところがあって
かなり悪戦苦闘しております
文脈がうまく作れないまま、放り出すしかない断章がたくさん生まれてます
もったいないので、ブログにアップしておこうかなと思います
最初の断章は、「宗教概念批判の要諦」 です
こいつはもしかすると、利用しなおすことになりそうですけど
なかなかこういう文章もないので、 ご関心の向きに参考にしていただければ幸いです
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よく指摘されるように、「宗教」という言葉には宗教学者ですらいまだ十分な定義をあたえることができていない。しかし、そうした現状を専門家らの怠慢や無能力によるものととらえるのは正しくない。もはや日常語となったせいであろうか、滅多に気づかれないのではあるが、「宗教」なる概念には、思想上ひいては文明論上の負荷が大変おおきくかかっており、それゆえ専門家であるほど、この概念のあつかいに苦慮するというのが実情なのである。
「宗教」は、明治初頭、religion(Religion)の訳語としてあらたに採用された語である。漢字で表記され、近代日本語の基本的な語彙にふくまれてはいるが、もともと生粋の外来語である。そしてこの語には、ヨーロッパの近代文明を構成する基本的な考え方が凝縮してこめられていた。その考え方は少なくともふたつの発想からなる。
第一に、キリスト教と隣接あるいは類似する現象を、キリスト教の絶対視をさけたうえで、ひとつの範疇におさめるとの発想である。具体的には、イスラム教(イスラーム)とユダヤ教、ヨーロッパ・地中海世界の古代文明の一部、世界中であらたに、あるいはあらためて認知されるようになった文化現象、これらの三つをひとつの仲間としてくくってよいだろう、くくるのは無理のないことだろうという発想である。こうした視点から諸現象を理解するべく発展させられたのが、宗教分類学である。「宗教」という類のもと、「キリスト教」「イスラム教」「ヒンドゥー教」などの種が、有限個、設定されるという、形式的な知識が形づくられていったわけだ。
第二に、「宗教」とは、前近代性(古きもの、伝統的なもの)の残存または継続を指示する語として設定された。近代のヨーロッパとその影響圏においてますます完成の度合いをつよめていく近代性(人間主義、個人主義、合理主義をとくに重視する文明のあり方)との対比においてそうされたのである。すなわち、「宗教」として一括されるようになったのは、キリスト教の言葉でいえば、人間ではなく神を、個人ではなく教会や信徒共同体などの集団を、そして理性ではなく感情や直観、とくに「信仰」を、世界を成りたせる核心的な要素とみなす世界観・価値観、およびその諸現象なのであった(そして、これに近接または類似する諸現象が世界各地に見いだされ、それらは宗教分類学という組織化された知識に成形されていった)。この過程においては「宗教」と「世俗」の分離が是認あるいは促進され、さらには「宗教」に対する「世俗」の上位性がひろく認められるようになった。ここで「宗教」は単なる桎梏とみなされもすれば、近代というあらたな時代においてあらたな生命力を獲得しうるともされた。
これらふたつの発想が、互いに互いを参照しあい、数百年をかけて安定化をはたしたところに「宗教」概念が成立した。宗教学という専門分野はその過程の最終段階に誕生し、「世俗」と「宗教」をめぐるヨーロッパの近代文明を総括する役割をはたした。
「宗教」概念とは、近代ヨーロッパの知識人があたらしい時代にふさわしい知識(宗教と世俗を二分する文明原理)として果敢に、必死に案出したものなのである。彼らの知的誠実さ、能力の高さ、悪意のなさはうたがうべくもない。しかし、できあがった「宗教」概念にはどうしても、行きすぎた一般化や根拠なき断定、主観的な願望とより客観的な認識との混同などがまぎれこむことになった。情報量のすくなさや、急を要する法的=政治的な必要性などが、認識のゆがみとその固定化をもたらしたのである。したがって、あらためて述べれば当然のことながら、「宗教」という類概念それ自体は自明な真理(疑いの余地なく正しいこと)の表現などではない。むしろそれは、理性ある個々人の集まりたる人間が「近代」と名づけられたあたらしい時代をみずから作り上げようとする、その意志のために用意されたロードマップなのだ。
それゆえに、「宗教」という概念はつねに批判的な検討にさらされねばならないし(それをしないのは近代主義イデオローグだけだ)、この一般名詞にぴたりと対応する普遍的な特徴(本質)の実在を当然視してはならない(本質主義的な宗教論はすでに近代地球史によって決定的に拘束されている)。宗教/世俗的近代性(宗教/世俗の二分法にもとづく文明原理)をのりこえて、その先に文明論上の原理をあらたに模索すること、それが「ポスト世俗主義の段階」と呼ばれる現代の課題なのである。
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我ながら、あいかわらず小難しい文章をかくなぁ、と思います
けどこれでも、一生懸命わかりやすく書いたつもりなのです
修行が足りませんね、精進したいです
「宗教」は、明治初頭、religion(Religion)の訳語としてあらたに採用された語である。漢字で表記され、近代日本語の基本的な語彙にふくまれてはいるが、もともと生粋の外来語である。そしてこの語には、ヨーロッパの近代文明を構成する基本的な考え方が凝縮してこめられていた。その考え方は少なくともふたつの発想からなる。
第一に、キリスト教と隣接あるいは類似する現象を、キリスト教の絶対視をさけたうえで、ひとつの範疇におさめるとの発想である。具体的には、イスラム教(イスラーム)とユダヤ教、ヨーロッパ・地中海世界の古代文明の一部、世界中であらたに、あるいはあらためて認知されるようになった文化現象、これらの三つをひとつの仲間としてくくってよいだろう、くくるのは無理のないことだろうという発想である。こうした視点から諸現象を理解するべく発展させられたのが、宗教分類学である。「宗教」という類のもと、「キリスト教」「イスラム教」「ヒンドゥー教」などの種が、有限個、設定されるという、形式的な知識が形づくられていったわけだ。
第二に、「宗教」とは、前近代性(古きもの、伝統的なもの)の残存または継続を指示する語として設定された。近代のヨーロッパとその影響圏においてますます完成の度合いをつよめていく近代性(人間主義、個人主義、合理主義をとくに重視する文明のあり方)との対比においてそうされたのである。すなわち、「宗教」として一括されるようになったのは、キリスト教の言葉でいえば、人間ではなく神を、個人ではなく教会や信徒共同体などの集団を、そして理性ではなく感情や直観、とくに「信仰」を、世界を成りたせる核心的な要素とみなす世界観・価値観、およびその諸現象なのであった(そして、これに近接または類似する諸現象が世界各地に見いだされ、それらは宗教分類学という組織化された知識に成形されていった)。この過程においては「宗教」と「世俗」の分離が是認あるいは促進され、さらには「宗教」に対する「世俗」の上位性がひろく認められるようになった。ここで「宗教」は単なる桎梏とみなされもすれば、近代というあらたな時代においてあらたな生命力を獲得しうるともされた。
これらふたつの発想が、互いに互いを参照しあい、数百年をかけて安定化をはたしたところに「宗教」概念が成立した。宗教学という専門分野はその過程の最終段階に誕生し、「世俗」と「宗教」をめぐるヨーロッパの近代文明を総括する役割をはたした。
「宗教」概念とは、近代ヨーロッパの知識人があたらしい時代にふさわしい知識(宗教と世俗を二分する文明原理)として果敢に、必死に案出したものなのである。彼らの知的誠実さ、能力の高さ、悪意のなさはうたがうべくもない。しかし、できあがった「宗教」概念にはどうしても、行きすぎた一般化や根拠なき断定、主観的な願望とより客観的な認識との混同などがまぎれこむことになった。情報量のすくなさや、急を要する法的=政治的な必要性などが、認識のゆがみとその固定化をもたらしたのである。したがって、あらためて述べれば当然のことながら、「宗教」という類概念それ自体は自明な真理(疑いの余地なく正しいこと)の表現などではない。むしろそれは、理性ある個々人の集まりたる人間が「近代」と名づけられたあたらしい時代をみずから作り上げようとする、その意志のために用意されたロードマップなのだ。
それゆえに、「宗教」という概念はつねに批判的な検討にさらされねばならないし(それをしないのは近代主義イデオローグだけだ)、この一般名詞にぴたりと対応する普遍的な特徴(本質)の実在を当然視してはならない(本質主義的な宗教論はすでに近代地球史によって決定的に拘束されている)。宗教/世俗的近代性(宗教/世俗の二分法にもとづく文明原理)をのりこえて、その先に文明論上の原理をあらたに模索すること、それが「ポスト世俗主義の段階」と呼ばれる現代の課題なのである。
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我ながら、あいかわらず小難しい文章をかくなぁ、と思います
けどこれでも、一生懸命わかりやすく書いたつもりなのです
修行が足りませんね、精進したいです