テッサ・モーリス=スズキ先生の『批判的想像力のために』
東大での非常勤講義の参考書にあげた
その「あとがきに代えて」から引用させていただきます
なお、文庫版もありますが ボクが読んだのはハードカバー版です
スズキ先生は
「ポピュラー・ナショナリズム(大衆受けを狙うナショナリズム)にその選挙区を置くコメンテーターや政治家たちは、大衆の持つ不可視の不安を、明瞭に見ることが可能なものへの置換によって生き残りを試みる」(271頁)
との状況把握について
その「生き残り」戦略を有効にしている「大情況」を次の二点に要約する
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一、いわゆる「グローバリゼーション」の過程が、資本・雇用・思想・宗教・情報・商品等々の越境化を急激に増大させるなか、資本から商品等々に至る越境的フローを容認し制度化するレジュームは、ここ三〇年間で、その基層において変容した。それにもかかわらず、この変容は人間のフローを制度化する部分には、ほとんど触れられていない。すなわち、各国民国家内での移民政策、国籍政策、あるいは国際的な難民条約等々の基層を成す想定や政治力学には、第二次大戦終結以降、ほとんど変化がみられなかった。
この制度と現実間の矛盾の存在は、時間の経過とともに拡大した。したがって、新しい問題を古い制度によって解決しようとする試みが、不条理で非人道的な結果を生むのだ。
二、いわゆる「グローバリゼーション」では、社会的経済的構造の変容が起こり、その構造が複合化することにより、全体図が見えにくくなる。その不透明感、そして個の次元で感じる不安の原因を、人々は「外部化」することにより確かな砦を築き上げ、自衛の策を取る場合が多いのではなかろうか。
また、それに加えて、国民国家内部での、実際の経済諸条件ならびに資本の流出入等は、国民国家の次元での政策のみでは、ほとんど統轄不可能な状態であるという現実が存在する。
この実際的権力の侵蝕作用に際し、政府は多くの場合、象徴的権力の強迫的補強により埋め合わせを狙おうと企てる。その好例が、一九九九年、日本における「国旗・国歌法」の制定であり、「強制はしない」と閣議決定をしながら、公立学校の入学し、卒業式での君が代斉唱、日の丸掲揚の実質的「強制」だった。一方、これは、オーストラリアにおいては、ジョン・ハワードが興味深くも名付けた国家の「絶対主権 absolute sovereignty」という、水の上に引かれた想像の境界線によって囲われた神聖なる「固有の領域」を条件なしに保持し続けることでもあった。
269-71頁
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