以前
という二つの記事を書きました
その続報です
次の対談記録における宮台真司先生の発言です
ちょっと長くなりますが、思い切って引用します
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簡単な話です。同じ「内容の距離化」だとしても、「追い込まれたもの=依存的なもの=オブセッシブなもの」か、「内発的なもの=自立的なもの=ノンオブセッシブなもの」か、の違いが重要だということ。ところが、近代が成熟期を迎え、生活世界が空洞化するにつれて、「ベタなアイロニー」「オブセッシブなアイロニズム」が支配的になってくる。
『サブカル』 [宮台ら著『サブカルチャー神話解体』 原1993年・増補版2007年]では、マンガと音楽を素材にして、[がきデカ的なもの/マカロニほうれん荘的なもの] [原新人類的なもの/新人類的なもの] [新人類的なもの/団塊ジュニア的なもの] [シャレ的なもの/オシャレ的なもの] などという対立として、[オブセッシブなもの/ノンオブセッシブなもの] の差異を描き出しています。
そこで細かく議論したように、サブカルチャーの画期は七三年、七七年、八三年、八八年、九二年、九八年です。七三年からは「若者的なもの」「政治的なもの」「団塊世代的なもの」が空洞化し、かわりに「シラケ文化的なもの」「アングラ的なもの」「シャレ的なもの」「諧謔的なもの」「原新人類=原オタク的なもの」が上昇します。
七七年からはこの「原新人類的=原オタク的なもの」が空洞化し、かわりに「韜晦的(オタク的)なもの」「オシャレ的(新人類的)なもの」が分化しつつ上昇します。でも「アングラ的なもの」「シャレ的なもの」もかろうじて残る。ところが八三年からは「アングラ的なもの」「シャレ的なもの」も一掃されて、「記憶が消去された新人類の時代」になります。
ちなみに七三年は北田さん [対談相手の北田暁大氏]のいう「反省の時代」と「抵抗としての無反省」の時代の境目です。八三年は「抵抗としての無反省」と「抵抗としての無反省」の境目です。ディスコブームや湘南ブームが起き、『ポパイ』がカタログ雑誌からマニュアル雑誌へと変化する七七年前後の頃から、「抵抗の忘却」が進みはじめます。年少世代から徐々にね。
『サブカル』の時代区分をつづけると、八八年からは「オシャレ的(新人類的)なもの」の席巻がオタク差別をもたらす時代が終わり、「新人類的なもの」と「オタク的なもの」がトライブ(小集団)として横並びになる。僕の言葉では「島宇宙化」「総オタク化」「団塊ジュニア的なもの」です。彼らは地味で、メディアや街との相性があまりよくない。
そして九二年からは、ブルセラ&援交の上昇に象徴されるように、「団塊ジュニア的なもの」が衰退し、かわりにメディアや人間関係の流動性をうまく乗りこなす(かのように見える)派手な「ポスト団塊ジュニア的なもの」が席巻します。ちなみに「ポスト団塊ジュニア手なもの」という場合に、僕は取材経験をベースにして、七七年生まれより若い世代を指します。
最後に九八年からは、社交的な子たちが「第四空間」である街に繰り出すくぁりに友達の部屋にタムロする「お部屋族化」が進み、街に繰り出すことと結びついた常習援交が衰退します。並行して、ひきこもり化・鬱病化・メンヘラー化・2ちゃんねる化が進みます。これが八三年生まれよりも若い「ポスト・ポスト団塊ジュニア的なもの」です。
「自由闊達なアイロニー」から「オブセッシブなアイロニー」への頽落は、すべての段階で進みます。この頽落は、いろいろに表現できます。「開かれた諧謔」から「閉じられた韜晦」への頽落。「ズレること」から「ズラすこと」への頽落。「わかる奴にしかわからないシャレ(非シャレ)」から「誰にでもわかるオシャレ(非オシャレ)」への頽落。「敷居の高いもの」から「誰でも参入できるもの」への頽落。
『サブカル』では、七七年から四回の画期を経て段階的にアイロニーが「大衆化」すると同時に「オブセッション化」していく動きを、明確に「頽落」だとしています。それ以前の七三年から七七年までの原新人類=原オタク的なアイロニーは、「文化エリート」にしかわからないと同時に、きわめて「自由闊達」なものでした。質はこちらが上です。
349-52頁: ルビは省略
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