宗教学者にとっては鬼門の書 『チベットのモーツァルト』
どれぐらい鬼門かというと、 ボクは今回 初めて読んでいる ってなぐらいなのだ
ともあれ… 読んでみれば やっぱり面白い
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今日、 とあるミーティングの場で ヒト・モノ・情報の流通/通交の話になった
「オペレーション・リサーチ」 という分野があるのだそうだが
それについて、 かなり具体的な つっこんだ話ができたと思う
帰宅後、 冬支度に毛布の洗濯をコインランドリーで行っていた
洗濯機と乾燥機がまわっている間、 最近読みはじめた同上書をひもとく
すると、 夕方に話していたことと響き合う一節に出くわした
メモとして 抜き書きしておこう
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以下 引用
そこで、密教が「意識の自然成長性」の隠喩にえらびだす都市、つまりかつて実際にはどこにも存在したことはないが、どの都市もおおかれ少なかれその実現にむかおうとして形成をはじめたユートピアとしての都市というものの特性を、スピノザ哲学にならって、次の三つの点にまとめてみることができる。
(一) 唯物論者としての都市。都市は、力をコード化し、構造化して社会体の上に配分する共同体のやり方をとらない。共同体がそれ自身をささえる超越的な価値にむかおうとするのにたいして、都市は無限の多様体である身体性のほうに、力の直接性のほうにむかっていく。都市は人びとを共同体から引き離し脱領属化して、抽象空間の上に解き放ち、そこを流れる力が自然成長していくにまかせようとしている。したがって都市の「倫理」は、構造の媒介によらない力の直接的社会化の形式である資本主義の「倫理」とおおくの共通点をもっている。
(二) 不道徳な都市。都市は、共同体をささえていたような価値体系としての「道徳」をないがしろにして、人間関係を価値体系によってではなくエソロジーとしてつくりあげようとしている。都市の「倫理」は、すこしも「道徳」的である必要はない。
(三) 無神論者としての都市。都市は「生」の力を委縮させ、その自然成長性を歪めようとするいっさいの超越的なものを否定しようとする。都市を「ツリー」状にイメージすることは、ほんらい無限の多様体にむかおうとする都市の「倫理」を隠蔽してしまうことでしかない。「都市はツリーではない」と、この「倫理」も言うだろう。ルサンチマンの感情も都市の抽象空間にはふさわしくないものだ。都市は歓びのパッションにみちあふれた遊戯的な「生」を切り開こうとしている。
引用おわり 講談社学術文庫版 229-230頁
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「ヒト・モノ・情報の流通/通交」、「オペレーション・リサーチ」の数学モデルは
例えばこのようなものにならざるをえないだろう、 というお話