山室静は アンデルセン評伝(原1975年) のなかでこう書いている
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それ [ブランデスが描くアンデルセンの顔] はたしかに、多年の辛酸をへて諦念に達しながら、なお底に才気を潜めている、ある美しさをもった顔であったろう。それにしても、それが性格的な弱さをもった弱者の顔であることに変りはない。そしてこのものと彼の文学とは、ブランデスも見ているように、切っても切れない関係にあるのだ。彼は詩を書き、小説や劇も試みて、かなりの作を残しているのは事実だが、それらはいずれも優雅ではあっても、男性的な天才の特色である強烈な個性、深い思想、鋭く問題を追求する力といったものを欠いていて、第一級のものには達しえなかったと言わねばならない。
しかし、童話という小さなジャンルでは、事情が異る。それは白日の下に赤裸な姿をさらしている世界ではなく、言わば少年時代の金色の靄をすかして眺められた世界だ。事物の鋭い輪郭はぼかされ、対立やギャップは埋められて、すべてが単純で無邪気な親しみやすい姿を呈し、そこに若々しい生命力と、その美しいあこがれだけが目立っている。重苦しさ、深刻さ、悲劇的なものなどはできるだけ避けられて、軽やかさ、ユーモア、気まぐれや移り気さえが、むしろ讃えられるべき美質になる。この世界でこそアンデルセンが、その才能を全的に展開させることができたのに、ふしぎはない。
それはそれとして、では童話は、他のジャンルに比べて、子供だましの一段と低級なものなのだろうか。決してそうではないだろう。それは少年時代の、ブランデスのいうエレメンタルな要素からのみなっている至福状態のいわば再現であり、また未来に人間の待ち望む理想郷の予兆なのだ。そういう意味で、文学の原型あるいは故郷といっていい。ノヴァーリスが「童話はいたるところにあって何処にもない故郷の夢だ」としたのは、こんな意味からであったろう。
アンデルセンの人間としての弱さ、大人の文学者としての弱さが、ここでは却って大きなプラスになっているのを見る。
「アンデルセンの生涯」 252-53頁
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