浅田次郎 『霞町物語』 の主人公は
1970年に18歳になる一人の青年です
つまり、1952年生まれ 浅田さんより一つ年下
(12月生まれの浅田さんからすれば ほぼ同い年)
この物語のなかで語られる、1970年の東京を集めてみました
それは再構成された一つの断面にすぎないでしょうが
何かしらの「事実」を含んでいるように ボクには思われます
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僕らはみな、半年後に迫った入試の重みに身も心も圧迫され、暑さに当たった猫のように無気力だった。休み時間を告げるベルが鳴ると、授業も続いていようがいまいが、突然誰かしらがカセットデッキのスイッチを入れ、華やかなリズム・アンド・ブルースを轟かせた。
オーティス・レディングが突然の飛行機事故で死んだあと、ジミ・ヘンドリックスが、ジャニス・ジョプリンが、ドアーズのジム・モリソンがたて続けに死んだ。
夭逝した天才たちの歌声は油蝉の喧しい鳴声と同様に、あくせくと生き延びようとする僕らの胸に応えた。
めざす大学はどこも多かれ少なかれ、学生運動の真最中だった。それはすでに高校生の間にも波及していたが、指折りの進学校であった僕らの仲間には、ヘルメットを冠るほど余裕のあるやつは少なかった。むしろその年に中止となった東大の入試が、果たして来年は行われるかどうか、行われるとしたら受験者数は二倍になるのか、ということが、もっぱら教室の関心事だった。
もっとも夜な夜な自慢の車を駆って青山のディスコにくり出す、僕ら一部の慮外者にとって、それはどうでもいいことだったが。
34頁: ルビ省略 (以下同)
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「とりあえず大学へ行け、っての。おまえんちだって、そうだろ」
「まあな。したっけ、いい大学へ行きゃ行ったでそう馬鹿もできねえしよ。ゲバ棒ぶん回して喧嘩するってのも、みっともねえし」
高度成長のまっただ中で育った僕らは、総じて目的意識に欠けていた。とりあえず人並みの学問を修め、同時に日々の享楽を貪る。おそらく前後の世代にも、東京以外の地方にも存在しない、僕らはきわめて特異な、小賢しい子供だった。
205-6頁
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不羈奔放のあげくに湘南の根城を追われ、なりゆきでここにやってきた。見知らぬ海で、僕らはじたばたと自分の居場所を探し続けたのだった。欲望のおもむくままに、そうと願えばまるで打ち出の小槌をふるみたいに何でも手に入る僕らは、いわば高度成長期の申し子だった。いくつか上の世代は、闘って何かを獲得しようとする意志があるけれども、僕らにはそうした野性が徹底的に欠けていた。
それでも僕らは、駄々さえこねればたいていのものを手に入れることができた。
たとえば――はるかな漁火を見ながら僕はとっさに、その夜の彼方の水銀色の光のつらなりを、掌の中に欲しいと考えたのだった。
学問という本分さえ失わなければ何をしてもいいのだと信じ、実際その通りに勉強をし読書をし、酒をくらい博奕を打ち、数限りない女を抱いた。こういう生活が許されるのは、僕らが人類史上最も幸福な時間に生まれ合わせたからにほかならなかった。
恋をしたのではないと、僕は自分自身に言いきかせた。つまり嫉妬は恋のせいではなく、欲したものが思い通りにならない不満と焦慮のせいだと思った。
ガラスの中で、僕は遠い漁火に手を触れてみた。大学に行き、社会に出ていつか大人になったとき、こんなふうにして育った僕らはいったい何をするのだろう。不満と焦慮をエネルギーにかえて、新しい時代を作り出すことができるのだろうか。
223頁
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