前便 「宗教概念批判の哲学的基礎づけ」の 直接のつづきです
フッサール(とくに『イデーン』まで)の哲学を 新田先生が要約なさってます
2013年度後期の「宗教学演習」のためのメモになります
長くなりますが お付き合いをばお願いいたします
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哲学的認識とは、「視ること」一般の成り立つ純粋なありさまを、「視ること」そのことによって捉えることであるといってよいであろう。哲学的認識とは反省としての「視ること」であり、何ものにもまして明証的であらねばならず、いかなる媒介的な手順や偏見をもそこにもちこむことを許さないものである。ところが、このようにして原初的知の形成の仕方を問い知のの総体性を基礎づけようとする哲学的認識には一挙に近づくことはできない。それゆえまず何よりもわれわれは哲学的認識にいたる道そのものを探さねばならない。この点でフッサールがたえず対決しなければならなかった相手が自然主義の方法的態度なのであった。というのは、自然主義もまた同様に直接的な所与に変えることを標榜し、それに無縁のあらゆる先入見を拒けようとするからである。ところが、自然主義は、「事象自体への帰行という基礎的要求を、自然的事物に関わる経験によってすべての認識を基礎づけようとする要求と同一視し、もしくは混同している」(『イデーン』Ⅰ)ところに、原理的誤謬を犯している。事象を自然的事象にのみ限局することによって、その結果、論理的対象を自然的経験に解体したり、経験そのものを自然的事象に組み入れたりして、「理念の自然化」や「意識の自然化」に陥っている。こうした自然主義の態度は、本来は科学のひとつの方法的態度なのではあるが(『イデーン』Ⅱ)、しかし方法であることを忘れてしまうと精神的なものや理性的なものまでも自然的なものであるかのように断定するひとつの形而上学的独断に陥ってしまう。なぜこにょうな方法的偏見や科学的先入見が発生してくるのか。フッサールは、このような先入見の発生の根拠となるものを、人間の意識につきまとう最も自然的であり基本的ともいえる「自然的態度」(natürliche Einstellung)に見出している。
自然的態度とは意識が実施態におかれ、対象に関わり続けているときに、おのずからとる構えかたである。この態度の特徴を、フッサールは、第一に対象の意味と存在を自明的とする捉えかた、第二に世界の存在の不断の革新を世界関心の枠組の暗黙の前提、第三に世界関心への没入による意識の本来t系機能の自己忘却という点に見ている。自然的態度に生きる限り、ものごとはいつも自明的なものとしてなじまれている。存在者が何であるかはつねに習慣的に了解され、それが在るということ自体については不問に付されている。科学的方法的態度もまた、すでに前提された存在者を一定の方法的視角から一義的に規定しようとする態度であり、改めて存在者の存在を問うものではない。要するに意識が実施態におかれる限り、こうした自明性は避けることができないのであって、そこからさまざまの実体化的把握の傾向が発生する。フッサールが掲げた有名な研究格率「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!)は、このように近さの仮象をもつがじつは媒介されているものを直接的な所与とみなしている態度に対する批判を含んでおり、真に存在者への近みにいたるためにはまず自然的態度に生きること自体を問題としなければならないことを説こうとしたものでもある。フッサールが自然的態度の最も根本的な特性とみなすのは、この態度に生きる限り、どんな場合でもつねに世界の存在が暗黙理に前提されていることであり、この世界確信を一般定立(Genralthesis)とよんでいる。さらに自然的態度におけるしべての対象関係は、世界という枠の内で行なわれ、科学的認識もすべて世界関心に含まれるという意味で世界関係的、世界拘束的である。したがってこの世界関心の内で意識が自らを反省するにしても、自らを「世界の内のひとつの存在者」として見出すだけであって、純粋な理性機能としての自己に気づくことはできない。
このように世界拘束的態度のなかでは、存在者の存在の意味を問うことや、存在者の総体としての世界の意味やその起源を問うことはできない。そこでフッサールは、「現象学的還元」(phanomenologische Reduktion)とよばれる態度変革の方法を唱えたのである。 […後略、次便につづく…]
25-27頁
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