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日本教における自然

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前便 「日本教的ファンダメンタリズムの大成者」にひきつづき

山本七平・小室直樹の対談 『日本教の社会学』 からの引用です

「自然」概念については 独自に研究したことがありますが

日本教論において こんなに中核的な概念であることには

当時、まったく無自覚でした お恥ずかしい

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山本  不干斎ハビアンは[…]いったん棄教するとキリスト教が決定的な問題になってきて、何よりもいけないとなる。何でいけないかといいますと、キリスト教は不自然だからいけないというんです。

小室 しかし、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の考え方からすれば、宗教というのはまず不自然であるべきなんですね。自然のままでいいなんていったら宗教なんて出てきっこない。聖書は[…]人間は自然のままほうっておいたらどんなに悪いことをする動物であるか、その例示で全巻が構成されているといっても過言ではない。それを制御するのが神との契約なのですが、これも自然のなりゆきにまかせておけば、人間は絶対に神との契約を守らない。そこで、神は預言者をつかわして警告し、もし神との契約が守られないのであれば、ユダヤの民を罰し、亡ぼそうとさえする。つまり、自然に価値があるのではなしに、神が作為的にきめた不自然きわまりない契約にのみ価値がある。

山本 日本人の発想はまさに逆ですよ。不自然じゃなきゃいけないんです。内心の規範まで自然的秩序(ナチュラル・オーダー)でなきゃいけないんです。これは前述の明恵上人にも出てきます。ところがそのことをいうと、「じゃヨーロッパの自然法とどう違うんですか」という質問が必ず出てくるんです。つまり自然法という考え方は、自然は本質であるといっても、同時に自由も本質であるという考え方が必ずあるんで、日本だと、つまり自由というのは自然のなかに組み込まれていて、自由という概念そのものが違っちゃう。たとえば、布施松翁(しょうおう)みたいな発想とすると、自然が自由なんですよ。従って、自然・自由は二つの本質ではないんです。
 たとえば、石田梅岩(ばいがん)がそうで、生命あるものは全部、自然の秩序を践(ふ)んでいる。だから「鳥類、獣類、形を践む。されど小人はしからず」なんです。小人というのは鳥類、獣類以下になる。それをどうすれば鳥類、獣類のように形に従って自然を践んで、いけるようにしてくれるかを説くのが聖人だ――といういい方なんですね。この発想はキリスト教とも儒教とも逆転してるんで、これはもう日本人独特の驚くべき宗教観なんです。

小室 これが山本さんのいわれた日本教ですね。[…]


106-8頁: ルビは括弧内に示した

引用者注:
    • 不干斎ハビアン(1565-1621)。もともと禅の修行者だったが切支丹となり、『妙貞問答』(1605)などで儒仏神を批判し、キリスト教の優越を説いた。晩年、修道女と駆け落ちし、棄教。一転、キリスト教の批判書『破提宇子』(1620)を著し、切支丹迫害者となった。
    • 明恵(1173-1232)。鎌倉時代前期の華厳宗の僧。戒律と修行を重んじる立場から、法然の「専修念仏」を激しく非難した。観行での夢想を記録した『夢記』が有名。
    • 布施松翁(1725-1784)。江戸中期の心学者。京都の人。近江地方から各地へと「心学」を開拓した。彼の心学は老荘と仏教思想が濃い。著書『松翁道話』(1812-)は江戸時代の通俗教育書の白眉とされ
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なお、前便にも書きましたとおり

『日本教の社会学』(1981年)はもともと単行本ですが、今や入手困難


そこで、上の引用は 『山本七平全対話4』(1985年)からのものです




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