エントリ 「童話は子供だましの低級な文学ジャンルなのか」の続報
山室静先生のノヴァーリス論は 読みやすく面白いです
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しかし、童話には童話としての陥穽と危険がある。その方法があまり軽やかで自由で、時間や空間の距離を容易にとびこえて、現実を思うがままに変容させたり組替えたりすることを可能にするため、どうしても思い現実と対決することがおろそかになりがちなことだ。そこで、ノヴァーリスが求めたような、なんらか絶対的必然的と受取られるごとき叙述をたどって、読者の心を深く満足させる結果に導くことは、他の文学ジャンルよりも却って困難とならざるをえない。すぐれた童話が、すぐれた詩や小説よりも乏しい理由である。童話がきびしい現実を忌避しあるいはとび越えて、手品師めいたトリックで読者をおどろかしたり、子供の遊戯のような無邪気な戯れに耽ったり、空想の翼をひろげて華麗や珍奇やの世界へ人を誘ってゆくことでつきるならば、そこには満たされないものが残るからだ。童話には遊びや驚異はつきもので、それだけでも楽しいことに相違ないが、真にすぐれた童話には、それ以上に深く人の心を打って、人生の真実にふれたと思わせるだけのものがなくてはならぬと思う。詩や劇や小説は、特定の情緒に没入したり、生の提供する特殊の問題をあつかったり、一口に言って、多様な人生のなんらかの特殊相を描きだすことで、十分に成立しうる。しかし、童話に要求されるところは、幼い人々にも理解できる、よし十分に理解はできなくとも、感受することはできるところの、もっと単純であって、それだけに本質的で全的な、万人の魂の奥底にふれるものでなくてはならないかと思う。
「すべての童話は、いたるところにあって、しかもどこにもない、かの故郷の世界の夢にすぎない」
[ノヴァーリスの] この『断章』の中の言葉は、そんな童話の世界を、かなりみごとに示している。それはどこにもあるが、真実の意味ではどこにもない、魂があこがれる真の故郷の姿をうつすものと言いかえてもよいだろう。
「ノヴァーリス」 363-64頁
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