雑誌『思想』2014年2月号掲載、
宮崎裕助によるジャック・デリダ 『散種』 邦訳の書評より その2
(その1との対比になっている文章です)
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イメーヌ [hymen: 「婚姻」と同時に「処女膜」を意味する特異な語] という出来事の成就と非成就のはざまで、マラルメのエクリチュールが痙攣状態を引き起こす。それは、いかなる意味やシステムにも回収しえないミメーシスの未知の空間、余白を開いている。この全般的ミメーシスの運動、その諸効果そのものは、あらかじめ予期しえず、事後に生ずる意味作用を通してのみ間接的に見出されるほかはない。しかしそのような予期不可能な未来を、いかなる真理とも理念とも無縁のまま、あらゆる拘束から解かれた状態にとどめておくためにこそ、デリダの読解は、意味作用の水準で決定不可能なものとして書き込まれたマーク ――「パルマコン」 [治療薬=毒薬] や「イメーヌ」 [婚姻=処女膜] のような―― を、当のテクストのうちに丹念に再標記(リマーク)してゆくのである。
宮﨑裕助 「〈書評〉限定的ミメーシスから全般的ミメーシスへ―ジャック・デリダ『散種』を読む―」 『思想』 2014.2,102頁
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